夜勤

ホラー

介護施設では、
夜中に入居者が廊下を歩いていることがあります。

眠れない。

トイレへ行きたい。

自分の部屋が分からなくなった。

理由はさまざまです。

だから夜勤の職員は、
深夜の廊下に人影を見つけても、
それほど驚かないそうです。

今回ノクヴェルに記録を送ってきたのは、
介護施設に勤務していた27歳の女性です。

ある夜。

巡回中の彼女は、

廊下を歩く一人の女性を見つけました。

白い寝巻き。

小柄な身体。

ゆっくりとした足取り。

いつものことだと思い、

後ろから声をかけました。

しかし、

その女性は、
三日前に亡くなった入居者でした。

そしてその翌晩から、
廊下を歩く死者は、
一人ずつ増えていったそうです。

以下は、

本人から送られてきた記録です。

ノクヴェル・アーカイブ ― File.013 ―

私は当時、

郊外にある介護施設で働いていました。

27歳でした。

入職して4年目。

夜勤にも慣れていて、

月に5回ほど担当していました。

施設は3階建て。

入居者は約60人。

夜勤は、

各階に職員が一人ずつ。

それに加えて、

全体を担当する夜勤責任者が一人。

最初にあの人を見たのは、

午前2時を少し過ぎた頃です。

私は2階を巡回していました。

廊下の奥に、

白い寝巻きを着た女性が立っていました。

小柄で、

背中が少し曲がっている。

髪は短い。

入居者の誰かが、

部屋から出てきたのだと思いました。

「どうされました?」

声をかけました。

返事はありません。

女性は、

ゆっくり歩き始めました。

裸足でした。

私は後ろからついていきました。

女性は、

203号室の前で止まりました。

そして、

ドアを開けるような動きをして、

中へ入っていきました。

私は、

少し違和感を覚えました。

203号室は、

空室だったからです。

すぐにドアを開けました。

誰もいません。

照明も消えています。

ベッド。

小さな棚。

カーテン。

それだけ。

窓は閉まっていました。

隠れられる場所もありません。

私は1階にいた先輩職員へ連絡しました。

「203号室に誰か入ったんですけど」

先輩は、

少し黙りました。

「誰?」

特徴を説明しました。

白い寝巻き。

小柄。

短い髪。

背中が曲がっている。

すると、

先輩は、

私に203号室から出るよう言いました。

あとで聞きました。

203号室には、

三日前まで、

82歳の女性が入居していました。

肺炎で入院し、

そのまま病院で亡くなったそうです。

私は、

その女性を知っていました。

ただ、

亡くなったことを知りませんでした。

先輩に見せてもらった写真。

そこに写っていたのは、

私が廊下で見た女性でした。

次の夜勤は、

四日後でした。

正直、

休みたかったです。

でも、

自分が疲れていたのだと思うことにしました。

午前2時12分。

また、

廊下に人がいました。

今度は、

男性でした。

灰色のパジャマ。

背が高く、

かなり痩せています。

男性は、

私の前をゆっくり歩いていました。

「こんばんは」

返事はありません。

顔を横から見た瞬間、

思い出しました。

半年前に亡くなった入居者でした。

男性は、

廊下の突き当たりまで歩きました。

そこには、

現在使われていない旧食堂があります。

男性は、

そのドアの前で止まりました。

そして、

中へ入っていきました。

私は追いませんでした。

その日の午前2時半。

また一人。

女性。

そのあと、

もう一人。

全員、

以前この施設で亡くなった人でした。

そして、

全員が、

旧食堂へ向かいました。

怖くなった私は、

事務室へ行き、

防犯カメラを確認しました。

廊下には、

防犯用のカメラがあります。

午前2時12分。

男性が映っていました。

私は、

声が出ませんでした。

見間違いではない。

画面の中を、

亡くなった男性が歩いています。

2時23分。

女性。

2時27分。

別の男性。

三人とも、

旧食堂へ入っていきました。

しかし、

出てくる映像はありませんでした。

翌朝。

責任者へ相談しました。

最初は、

信じてもらえませんでした。

そこで、

防犯カメラを見てもらいました。

ところが、

映像を再生すると、

廊下には誰も映っていません。

私だけ。

私は、

誰もいない廊下で立ち止まり、

誰かに道を譲るように身体をずらし、

旧食堂の方を見ています。

昨夜、

私が確認した映像とは違いました。

責任者には、

疲れているんじゃないかと言われました。

それから、

夜勤のたびに、

死者を見るようになりました。

一人。

三人。

五人。

七人。

少しずつ、

増えていきました。

全員、

午前2時を過ぎると部屋だった場所から現れ、

旧食堂へ向かいます。

誰も私を見ません。

誰も話しません。

ただ、

一度だけ。

亡くなった女性と、

廊下ですれ違ったとき。

小さな声で、

こう言われました。

「もうすぐ席がなくなるね」

私は振り返りました。

女性は、

もういませんでした。

次の夜勤。

午前2時34分。

旧食堂の前を通りました。

中から、

音がしました。

カチャ。

カチャ。

食器の音。

それから、

何人もの話し声。

笑い声。

旧食堂は、

半年以上使われていません。

私は、

ドアについている小さな窓から、

中を見ました。

最初、

何も見えませんでした。

暗かったからです。

目が慣れてくると、

テーブルが見えました。

そして、

人。

十人以上いました。

全員、

椅子に座っています。

私に背を向けていました。

亡くなった入居者たちでした。

テーブルの上には、

食事が並んでいました。

湯気まで見えました。

誰かが笑っている。

誰かが箸を動かしている。

でも、

音だけが、

妙に遠い。

まるで、

別の部屋を、

壁越しに見ているようでした。

そして、

一つだけ、

誰も座っていない席がありました。

その席にも、

食事が置かれていました。

白いご飯。

味噌汁。

煮物。

お茶。

その前に、

小さな名札。

私は、

目を凝らしました。

そこに書かれていたのは、

現在入居している女性の名前でした。

翌朝。

その女性が、

亡くなりました。

午前5時18分。

巡回した職員が、

ベッドの上で発見しました。

前日まで、

普通に食事をしていた人です。

夜間、

ナースコールもありませんでした。

私は、

旧食堂で見た名札のことを、

誰にも話せませんでした。

偶然だと思いたかった。

次の夜勤。

私は、

旧食堂へ行かないようにしました。

でも、

午前2時を過ぎると、

また食器の音が聞こえてきました。

気づけば、

私はドアの前に立っていました。

見たくない。

それでも、

小窓を覗きました。

亡くなった女性が、

昨日まで空いていた席に座っていました。

その隣。

また、

新しい空席。

食事が一人分。

名札。

今度は、

入居者の名前ではありませんでした。

私の名前でした。

私はその場から逃げました。

事務室へ戻り、

朝までドアを開けませんでした。

夜勤が終わったあと、

上司に体調不良を伝え、

数日休みました。

その間、

私は自分が死ぬのだと思っていました。

眠るのも怖かった。

風呂に入るのも怖い。

道路を渡るのも怖い。

でも、

一日。

二日。

三日。

何も起きません。

一週間経っても、

私は生きていました。

だから、

あの空席は、

死ぬ人を示しているわけではないのかもしれない。

そう考え始めました。

二週間後。

私は日勤だけという条件で、

職場へ戻りました。

旧食堂には近づきませんでした。

ところが、

復帰三日目。

清掃担当の職員から、

聞かれました。

「昨日、夜来た?」

私は、

来ていません。

その日は午後6時に退勤しています。

「じゃあ、あれ誰だったんだろう」

話を聞くと、

午前2時頃。

旧食堂の前に、

女性職員が立っていた。

後ろ姿しか見えなかった。

制服も、

髪型も、

私と同じ。

清掃担当者が声をかけると、

その女性は振り返らず、

旧食堂へ入っていったそうです。

私は、

その日の防犯カメラを確認しました。

午前2時11分。

私が、

映っていました。

間違いありません。

制服。

髪型。

歩き方。

私です。

画面の私は、

旧食堂の前で止まりました。

そして、

カメラの方を向きました。

顔も、

私でした。

ただ、

笑っていました。

私は、

そんな笑い方をしません。

画面の私は、

旧食堂へ入りました。

そして、

出てきませんでした。

その日の夜。

私は、

もう一度だけ、

旧食堂へ行きました。

午後7時。

まだ職員も入居者も起きている時間です。

照明をつけました。

当然、

誰もいません。

使われていないテーブル。

積まれた椅子。

古い食器棚。

私は、

自分の名札が置かれていた席まで歩きました。

何もありません。

帰ろうとしたとき、

背後から、

椅子を引く音がしました。

振り返る。

誰もいません。

でも、

一脚だけ、

椅子がテーブルから離れていました。

その椅子の上に、

何かがありました。

職員用の名札。

私のものでした。

胸元を触りました。

そこにあるはずの名札が、

ありませんでした。

椅子の上の名札を取ろうとしたとき。

耳元で、

声がしました。

三日前に亡くなった、

あの女性の声でした。

「そこ、あなたの席じゃないよ」

私は、

動けませんでした。

続けて、

別の声。

最初に見た、

203号室の女性。

「まだ来ちゃだめ」

その瞬間。

旧食堂の照明が、

消えました。

暗闇の中で、

一斉に、

椅子を引く音がしました。

一脚ではありません。

十。

二十。

もっと。

私は、

出口へ走りました。

ドアを開け、

廊下へ飛び出しました。

背後から、

大勢の声が聞こえました。

何を言っているのか、

ほとんど分かりません。

ただ、

一つだけ。

はっきり聞こえました。

「違う人だ」

私は、

その月で施設を退職しました。

それ以来、

死者を見ることはありません。

私は今も生きています。

では、

あの夜、

私の名前が置かれていた空席は、

何だったのか。

その答えは、

退職して半年ほど経った頃、

元同僚から届いた連絡で、

少しだけ分かりました。

旧食堂を改修することになり、

長年動かしていなかった食器棚を撤去したそうです。

その裏から、

古い職員証が出てきました。

約15年前。

その施設で働いていた、

女性職員のもの。

その女性は、

夜勤中に施設を抜け出したあと、

交通事故で亡くなっていました。

元同僚が送ってくれた、

職員証の写真。

名前は、

私とは違います。

年齢も違う。

でも、

顔だけは、

私によく似ていました。

ノクヴェル保管記録

記録を受け取ったあと、

ノクヴェルでは投稿者に、

いくつか追加確認を行いました。

投稿者は現在、

別の業種で勤務しています。

退職後、

亡くなった入居者を見たことは一度もないとのことです。

また、

旧食堂で自分の名前を見た翌朝も、

投稿者の身に異常はありませんでした。

このことから、

空席に置かれる名札が、

必ずしも「次に亡くなる人物」を示していたとは断定できません。

ただし、

施設側には、

別の記録が残っていました。

15年前に亡くなった女性職員。

彼女が事故に遭ったのは、

夜勤を抜け出した直後。

死亡推定時刻は、

午前2時38分。

事故の理由については、

当時の記録にも詳しく残っていません。

しかし、

事故前。

同僚に、

こんなことを話していたという記録がありました。

「食堂に、亡くなった人たちがいる」

さらに、

「私の席が用意されている」

とも話していたそうです。

投稿者と、

ほぼ同じ体験です。

ではなぜ、

投稿者は死ななかったのでしょうか。

その答えは分かりません。

ただ、

投稿者が旧食堂へ入った最後の夜。

死者たちは、

彼女にこう言いました。

「そこ、あなたの席じゃないよ」

「まだ来ちゃだめ」

そして、

「違う人だ」

もしかすると、

あの空席は、

投稿者のために用意されたものではなかったのかもしれません。

15年前から、

座るべき人物を待ち続けていた。

その人物と、

投稿者の顔が、

偶然よく似ていただけだった。

そう考えれば、

死者たちが彼女を追い返した理由にも、

一応の説明はつきます。

ただし、

記録には、

最後にもう一つだけ続きがあります。

投稿者が退職してから、

約一年後。

施設で夜勤をしていた職員が、

午前2時過ぎ。

旧食堂の前で、

知らない女性を見ています。

古い型の職員服。

長い髪。

女性は、

旧食堂のドアを開ける前に、

職員へ尋ねたそうです。

「私の席、まだありますか?」

職員が、

「どちら様ですか」と聞き返すと、

女性は答えませんでした。

そのまま、

旧食堂へ入った。

職員が追いかけたとき、

中には誰もいませんでした。

翌朝。

旧食堂のテーブルの上に、

古い職員証が一枚、

置かれていました。

15年前に事故で亡くなった、

あの女性職員のものでした。

それ以降、

旧食堂で死者を見たという報告は、

現在まで確認されていません。

ノクヴェル・アーカイブ File.013

「夜勤」

――保管終了。

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