財布、鍵、スマートフォン、傘。
交番には毎日のように、誰かの忘れ物が届けられます。
持ち主が分かれば連絡し、分からなければ拾得物として保管する。
警察官にとっては、日常的な業務の一つです。
ではもし――
まだ失くしていない自分の持ち物が、先に「忘れ物」として届けられたら。
今回ノクヴェルに記録を送ってきたのは、都内の住宅街にある交番に勤務していた29歳の女性警察官です。
彼女の勤務先には数日間、同じ黒いバッグが、別々の人物によって届けられ続けました。
最初は、見覚えのない財布と鍵。
次に、何年も前に返却したはずの社員証。
そして、自宅にあるはずの合鍵。
バッグが届けられるたび、その中身は少しずつ、
彼女自身に近づいていきました。
以下は、本人から送られてきた記録です。
ノクヴェル・アーカイブ ― File.010 ―
私は警察官です。
当時は、都内の住宅街にある交番に勤務していました。
最初のバッグが届けられたのは、月曜日の午後11時42分です。
40代くらいの男性が、
「歩道に置いてありました」
と言って、黒いボストンバッグを持ってきました。
中には財布、ハンカチ、鍵。
財布には現金が入っていましたが、身分証はありません。
珍しい物ではありません。
私は通常どおり拾得物として登録し、バッグを保管庫へ入れました。
それだけでした。
翌日の午後10時過ぎ。
大学生くらいの男性が、黒いバッグを持ってきました。
見た瞬間、昨日のものだと思いました。
ですが、昨日のバッグは保管庫にあります。
二つを並べてみました。
形も大きさも同じ。
持ち手についた小さな傷も、底の擦れ方まで同じでした。
同僚は、
「同じ商品なんじゃない?」
と言いました。
私も、そう思うことにしました。
二つ目のバッグを開けました。
財布。
ハンカチ。
鍵。
そして、社員証。
そこに写っていたのは、
私でした。

警察官になる前、私は一般企業で3年ほど働いていました。
その会社の社員証です。
会社名も社員番号も、当時のもの。
顔写真も間違いなく私でした。
ただ、その社員証は退職時に会社へ返却しています。
持ち帰った記憶はありません。
その日は写真だけ撮り、社員証も拾得物として保管しました。
帰宅後、昔の書類を確認しました。
社員番号まで一致していました。
偶然ではありません。
あれは、私が使っていた社員証でした。
水曜日。
午後11時7分。
三つ目の黒いバッグが届きました。
届けたのは60代くらいの女性です。
今度は住宅街の自動販売機の横に置かれていたそうです。
中には、これまでと同じ財布、ハンカチ、鍵、社員証。
そして、小さな鍵が一つ増えていました。
青いキーホルダー。
角についた傷。
見覚えがありました。
私の自宅の合鍵です。
一人暮らしを始めたときに作り、自宅の机の引き出しにしまっていました。
勤務を終えた私は、すぐに帰宅しました。
玄関にも窓にも、侵入された形跡はありません。
寝室の机。
一番上の引き出し。
開けました。
合鍵がありません。
何度探しても見つかりませんでした。
あのバッグに入っていた鍵は、
似た物ではなかった。
誰かが私の部屋から持ち出した物だった。
そう考えた瞬間から、あのバッグがただの拾得物には見えなくなりました。
翌日。
私はバッグを届けた三人に、改めて話を聞きました。
「拾ったとき、近くに誰かいませんでしたか?」
最初の男性が答えました。
「女性がいました」
「どんな女性ですか?」
「警察官だったと思います」
二人目も同じ。
三人目も同じでした。
女性警察官。
20代後半くらい。
身長も髪型も、私とよく似ている。
さらに三人とも、
「その女性から、交番へ届けてほしいと頼まれた」
と言いました。
私は聞きました。
「顔は覚えていますか?」
三人の答えまで同じでした。
「よく見えませんでした」
「どうしてですか?」
「ずっと下を向いていたので」
木曜日。
私は夜勤でした。
午後11時56分。
若い女性が、四つ目の黒いバッグを持ってきました。
私はバッグを見る前に聞きました。
「女性の警察官から渡されましたか?」
相手は驚きました。
「……はい」
「顔は見ました?」
「いいえ」
「下を向いていましたか?」
女性は首を振りました。
「違います」
初めて答えが変わりました。
「ずっと私に背中を向けていました」
意味が分かりませんでした。
「それなら、どうやってバッグを渡されたんですか?」
女性は自分の腕を背中側へ回し、
後ろ手に何かを差し出すような動きをしました。
「こんな感じです」
私は、それ以上聞けませんでした。
四つ目のバッグを開けました。
いつもの物に加えて、
腕時計が入っていました。
父から就職祝いにもらった時計。
私は反射的に左手首を見ました。
同じ時計が、
そこにありました。
傷の位置まで同じ。
私は同僚を呼びました。
「ちょっと、これ見て」
同僚が近づいてきたので、左腕を見せようとしました。
その瞬間でした。
時計がありませんでした。
手首には、ベルトの跡だけが残っていました。
バッグの中には時計が一つ。
さっきまで私が身につけていたものです。
私は、時計を外した覚えがありません。
つまり今度は、
バッグが先に現れ、
そのあと私が「失くした」ことになった。
さらにバッグの底から、
スマートフォンが出てきました。
見たことのない機種です。
ロック画面には、
「所有者に返却してください」
その下に、私の名前。
ロックはかかっていませんでした。
電話帳もメールも空。
写真だけが一枚ありました。
暗い部屋。
棚。
段ボール。
黒いバッグ。
すぐに分かりました。
この交番の、
拾得物保管庫です。
写真の隅には、制服姿の女性が床に座っていました。
顔は髪に隠れています。

ただ、胸元の名札には、
私の名字。
撮影日時を確認しました。
翌日 午前2時38分。
まだ来ていない時間でした。
私は同僚に写真を見せました。
その日の午前2時38分まで、絶対に保管庫へ入らないと決めました。
午前1時。
異常なし。
午前2時。
異常なし。
午前2時21分。
交番の電話が鳴りました。
男性の声でした。
『落とし物を拾ったんですけど』
「場所はどちらですか?」
男性が住所を答えました。
私の自宅でした。
「何を拾いましたか?」
沈黙。
『女性です』
「……人ですか?」
『はい』
「怪我をしていますか?」
『分かりません。さっきから家の前に立っていて』
私は受話器を強く握りました。
『あ、今こっち見ました』
「どんな人ですか?」
『警察官みたいです』
少しして、
男性が私の名字を読み上げました。
『名札に書いてあります』
その直後。
電話の向こうから、
女性の声がしました。
私の声でした。
『交番までお願いします』
通話が切れました。
午前2時31分。
私は交番の入口を施錠しました。
2時36分。
何も起きない。
2時37分。
例のスマートフォンを見る。
未来の写真はまだ残っています。
そして、
午前2時38分。
交番の奥から電子音が鳴りました。
拾得物管理用の端末です。
誰も操作していません。
画面には、
新しい拾得物が登録されていました。
受付時刻:02:38
拾得場所:私の自宅住所
届出者:私の名前
その下。
拾得物:女性 1名
身元:確認済
そして、
保管場所:当交番・拾得物保管庫
私は後ろを見ました。
保管庫の扉が、
数センチだけ開いていました。
鍵をかけたはずです。
中は暗い。
誰も動けませんでした。
そのとき、
中から何かが擦れる音がしました。
ガサッ。
そして、
女の声。
「すみません」
私の声でした。
もう一度。
「すみません」
少し間を置いて、
こう言いました。
「忘れ物を取りに来ました」
応援を呼びました。
到着した警察官と一緒に保管庫を確認しましたが、
誰もいませんでした。
ただ、
今までの黒いバッグが四つ並び、
その奥に、
五つ目のバッグが置かれていました。
今までより大きい。
別の警察官が開けました。
中は空でした。
ただし、内側に一枚の紙が縫い付けられていました。
拾得物管理票。
そこには、
私の氏名。
生年月日。
住所。
勤務先。
すべて正しく書かれていました。
品名。
女性 1名
状態。
保管中
返還予定。
未定
私は、その日から勤務を外れました。
数日後。
実家に戻っていた私に、
同僚から電話がありました。
あの日の拾得物記録が変更されているというのです。
女性 1名
状態。
返還済
返還日時。
午前2時38分。
受取人。
本人
私は受け取りに行っていません。
それでも、
システム上では返還済みになっていました。
その夜。
実家で夕食を食べていると、
母が何気なく言いました。
「昨日の夜、どこ行ってたの?」
私はどこにも行っていません。
「ずっと寝てたけど」
「でも、玄関にいたでしょう」
箸を置きました。
「何時?」
「2時半くらい」
「何してた?」
母は、
不思議そうに私を見ました。
「忘れ物を取りに行くって言ってたじゃない」
私は何も答えられませんでした。
「何か持ってた?」
「黒いバッグ」
その夜、
私は家中を確認しました。
何もありませんでした。
最後に自分の部屋から廊下へ出ました。
玄関の前に、
黒いバッグが置かれていました。
今までで、
一番大きなバッグ。
人一人なら、
身体を丸めれば入りそうな大きさでした。

私は開けませんでした。
午前2時を過ぎても、
バッグはそのままです。
午前2時34分。
中から、
布が擦れるような音がしました。
午前2時36分。
バッグが、
少し動きました。
午前2時37分。
ファスナーの金具が、
ゆっくり動き始めました。
私は触っていません。
内側からです。
そして、
午前2時38分。
動きが止まりました。
代わりに、
バッグの中からスマートフォンの着信音が聞こえました。
私のスマートフォンも、
同時に鳴りました。
画面には、
知らない番号。
怖くて出られませんでした。
すると、
バッグの中から留守番電話の音声が流れました。
『お名前をお願いします』
少し沈黙して、
女が答えました。
私の声でした。
『拾得者です』
続いて、
別の声が聞こえました。
それも、
私の声でした。
『返してもらえますか』
そこで録音は切れました。
これを書いている今も、
バッグは玄関にあります。
ただ、
さっき確認したとき、
ファスナーが完全に開いていました。
中は、
空でした。
代わりに、
玄関には、
私の靴と同じ靴が二足並んでいます。
ノクヴェル保管記録
この記録は、
午前2時51分、
ノクヴェル宛てに送信されました。
投稿者から送られてきたのは、
ここまでに記載した体験記のみです。
記録を受信した翌日、
私たちは投稿者へ、
現在の状況を確認するメールを送りました。
その日の午後、
短い返信がありました。
「もう大丈夫です」
本文は、
それだけでした。
数日後。
投稿者本人から、
もう一度連絡がありました。
実家の玄関に置かれていた黒いバッグは、
翌朝にはなくなっていたそうです。
家族の誰も、
動かしていませんでした。
玄関の鍵が開けられた形跡もなく、
防犯カメラにも、
バッグを持ち去る人物は映っていませんでした。
そして、
交番の拾得物管理システムからも、
例の記録は消えていました。
拾得物:女性 1名
という登録そのものが、
存在しなくなっていたそうです。
黒いバッグも、
その後は一度も届けられていません。
投稿者はしばらく休職したあと、
別の部署へ異動しました。
現在も警察官として勤務しているとのことです。
ここまでであれば、
この出来事は終わったと考えることもできます。
ただ、
最後の連絡には、
一つだけ気になることが書かれていました。
異動後、
以前一緒に勤務していた同僚と会ったそうです。
久しぶりに話をしていると、
同僚が何気なく、
こう言いました。
「そういえば、あの夜のこと覚えてる?」
もちろん、
投稿者は覚えていました。
午前2時38分。
拾得物保管庫から、
自分と同じ声が聞こえた夜です。
ところが、
同僚の記憶は少し違っていました。
あの夜。
応援の警察官が到着し、
拾得物保管庫を確認したあと。
投稿者は、
一度、
保管庫の中へ入ったというのです。
投稿者には、
その記憶がありません。
「私、入ってないよ」
そう答えると、
同僚は不思議そうな顔をしたそうです。
そして、
こう言いました。
「入ったよ」
「それで、しばらくして出てきた」
投稿者は聞きました。
「一人で?」
同僚は、
少し考えてから答えました。
「……二人で入った」
「じゃあ、誰と出てきたの?」
その質問に、
同僚は答えられませんでした。
しばらく考えたあと、
「分からない」
と言ったそうです。
ただ、
一つだけ覚えていました。
保管庫から出てきた投稿者は、
黒いバッグを持っていた。
そして同僚に、
こう言ったそうです。
「本人に返してきます」
その後、
投稿者から新たな異常についての連絡はありません。
生活にも、
勤務にも、
問題は起きていないとのことです。
そのためノクヴェルでは、
本件を保管終了としています。
ただし、
最後まで確認できなかったことが、
一つあります。
あの夜、
拾得物管理システムには、
こう登録されていました。
拾得物:女性 1名
その後、
状態は、
返還済。
受取人は、
本人。
では、
あの保管庫から出てきて、
現在も生活している女性は、
拾得物だったのでしょうか。
それとも、
それを受け取りに来た本人だったのでしょうか。
その確認だけは、
現在も取れていません。
ノクヴェル・アーカイブ File.010
「忘れ物」
――保管終了。
