ホテルに泊まったとき、
ドアノブに「清掃不要」の札を掛けたことはありますか。
部屋でゆっくり眠りたい。
荷物を動かされたくない。
理由は人それぞれです。
清掃スタッフにとっても、
それは珍しいものではありません。
では――
誰も宿泊していないはずの客室に、毎朝「清掃不要」の札が掛かっていたら?
今回ノクヴェルに保管するのは、ビジネスホテルで客室清掃を担当していた女性から寄せられた記録です。
投稿者は42歳。
同じホテルに勤務して6年目で、一日に十数室の清掃を担当していました。
客室に残された忘れ物。
乱れたベッド。
濡れた浴室。
さまざまな部屋を見てきた彼女ですが、
その客室だけは、
今でも忘れられないといいます。
なぜなら――
宿泊者がいないはずなのに、日を追うごとに「誰かが泊まっている痕跡」が増えていったからです。
以下は、本人から送られてきた記録です。
ノクヴェル・アーカイブ ― File.008 ―
私は駅前にあるビジネスホテルで、
客室清掃の仕事をしている。
勤務して6年になる。
ホテルは12階建て。
客室は全部で180室ほど。
私たち清掃スタッフは毎朝、
フロントから渡される清掃リストを確認して、
担当する部屋を順番に回る。
問題の部屋は、
807号室だった。
最初に気づいたのは、
火曜日の朝。
807号室のドアノブに、
札が掛かっていた。
清掃不要
珍しいことではない。
連泊中の客が、
清掃を断ることはよくある。
私はリストにチェックを入れ、
隣の808号室へ向かった。
その日は、
それだけだった。
翌朝。
また807号室に、
清掃不要
の札が掛かっていた。
私はそのまま通り過ぎようとした。
だが、
清掃リストを見て手が止まった。
807号室が、
リストに載っていない。
連泊客なら、
通常は「滞在中」などの記載がある。
私は清掃責任者に聞いた。
「807って、今日も清掃なしですか?」
責任者は端末を確認した。
「807?」
数秒後。
「今日、空室だよ」
「昨日から泊まってる人いません?」
「いないよ」
私はドアを見た。
札は、
確かに掛かっている。
清掃不要
「じゃあ、この札は?」
責任者も見に来た。
「あれ?」
札を外した。
「前の客が掛けたままだったのかな」
その日は、
それで終わった。
木曜日。
807号室の前へ行く。
また札が掛かっていた。
清掃不要
昨日、
責任者が外したはずだった。
私はフロントへ電話した。
「807号室、誰か入ってます?」
「確認します」
少し待った。
「空室です」
「今日だけですか?」
「いえ。月曜にチェックアウトしてから、予約入ってません」
私は聞き返した。
「月曜から?」
「はい」
おかしい。
最初に札を見たのは、
火曜日だ。
つまり、
その時点ですでに空室だった。
私は責任者を呼んだ。
マスターキーで、
807号室を開けることになった。
「失礼いたします」
誰もいないと分かっていても、
習慣で声をかけた。
ドアを開ける。
室内は暗かった。
カーテンは閉まっている。
責任者が照明をつけた。
ベッド。
机。
テレビ。
冷蔵庫。
見た限り、
異常はない。
ベッドメイクもされたまま。
ゴミ箱も空。
「やっぱり誰もいないね」
責任者が言った。
私は浴室を確認した。
タオルは畳まれている。
浴槽も乾いている。
トイレも使われていない。
「札だけ誰かが掛けたのかな」
そう思った。
部屋を出ようとしたとき、
洗面台が目に入った。
白いコップ。
その中に、
歯ブラシが一本立っていた。
ホテルのアメニティだった。
袋から出されている。
毛先が濡れていた。

指で触れると、
まだ水滴がついた。
「これ……」
責任者を呼んだ。
「さっき誰か入りました?」
「入ってないよ」
「濡れてます」
責任者も触った。
顔から笑いが消えた。
歯ブラシは処分した。
部屋をもう一度確認し、
誰もいないことを確かめた。
最後に、
ドアノブの札も回収した。
その日は807号室を、
販売停止にした。
金曜日。
私は出勤して、
真っ先に807号室へ向かった。
廊下の奥。
807。
ドアノブには、
札が掛かっていた。
清掃不要
私は触らなかった。
責任者を呼んだ。
二人で部屋へ入った。
昨日とは違っていた。
ベッドの掛け布団が、
めくれている。
シーツには、
人が横になったようなくぼみ。
枕にも、
頭を置いた跡があった。
「誰か入ったでしょ」
私は言った。
責任者は首を振った。
「昨日から販売停止のまま」
フロントにも確認した。
マスターキーの使用履歴も調べた。
昨夜、
807号室を開けた記録はない。
客室のカードキーも発行されていない。
それなのに、
誰かがベッドを使っている。
浴室を見る。
シャワーの床が、
濡れていた。
鏡も曇っている。
そして、
洗面台。
昨日捨てたはずの歯ブラシが、
またコップに入っていた。
今度は、
二本。
土曜日。
出勤したくなかった。
それでも、
仕事だからホテルへ向かった。
807号室は、
まだ販売停止になっていた。
私は責任者と一緒に確認した。
札。
清掃不要
ドアを開ける。
部屋に入った瞬間、
匂いがした。
シャンプー。
湿ったタオル。
それから、
人が長時間いた部屋特有の、
わずかな生活臭。
ベッドを見る。
枕が、
二つとも使われていた。
この部屋はダブルルームだ。
前日までは、
一つしか使われた跡がなかった。
机の上には、
ペットボトルが一本。
半分ほど水が減っている。
冷蔵庫には、
コンビニのおにぎり。
ゴミ箱には、
その包装。
誰かが、
ここで生活している。
それなのに、
どこを探しても人はいない。
責任者が言った。
「防犯カメラ確認しよう」
ホテルの廊下には、
各階に防犯カメラがある。
昨夜の映像を確認した。
23時。
誰もいない。
0時。
誰もいない。
1時。
2時。
3時。
807号室のドアは、
一度も開いていなかった。
早送りを止めた。
午前4時13分。
何かがおかしい。
ドアノブ。
何も掛かっていない。
午前4時14分。
映像が一瞬だけ乱れた。
次の瞬間。
ドアノブに、
「清掃不要」の札が掛かっていた。
誰も映っていない。
札だけが、
突然現れていた。
私は、
もう807号室を担当したくないと伝えた。
責任者も了承した。
その日の午後。
フロントの女性が、
清掃室まで来た。
「ちょっと確認してもらえます?」
宿泊管理システムの画面を見せられた。
807号室。
販売停止にしていたはずなのに、
表示が変わっている。
宿泊中
「誰かチェックインしたんですか?」
「してません」
宿泊人数。
1名
チェックイン日時。
本日 4:14
私は嫌な予感がした。
「名前は?」
フロントの女性が、
宿泊者情報を開いた。
私は何も言えなくなった。
そこには、
私の名前が表示されていた。

年齢。
42歳。
住所。
電話番号。
すべて、
私のものだった。
私はその日の途中で仕事を早退した。
翌日も休んだ。
ホテルには行かなかった。
昼過ぎ。
同僚から電話が来た。
「今日、出勤してます?」
「休みだけど」
「ですよね」
声がおかしかった。
「どうしたの?」
少し沈黙。
「さっき……」
「807に入っていくの見たんです」
身体が固まった。
「誰が?」
「あなたです」
私は自宅にいる。
電話をしながら、
自分の部屋を見回した。
間違いなく自宅だ。
「制服着てました」
同僚が続けた。
「清掃カート押して、807に入っていきました」
「顔、見た?」
「見ました」
「本当に私?」
「はい」
そして、
同僚が言った。
「声かけたんですけど」
「振り返らなかったです」
私は責任者へ電話した。
すぐに防犯カメラを確認してもらった。
後から、
映像をスマートフォンで送ってもらった。
午前11時32分。
エレベーターが8階に到着する。
ドアが開く。
清掃カートが出てくる。
押しているのは、
女性。
ホテルの清掃制服。
髪型。
身長。
歩き方。
私だった。
顔も映っている。
間違いない。
映像の私は、
807号室の前で止まった。
清掃カートから、
何かを取り出す。
「清掃不要」の札。
それを、
ドアノブに掛ける。
そして、
カードキーを使わずに、
ドアを開けた。

中へ入る。
ドアが閉まる。
映像は、
そのまま6時間続いていた。
だが、
私が部屋から出てくる映像はなかった。
翌日。
私はホテルを辞めることを決めた。
制服も返却した。
807号室には、
最後まで近づかなかった。
それから2週間。
ホテルから連絡はない。
私自身にも、
特に変わったことは起きていない。
だから、
この記録を送ろうと思った。
ただ、
昨夜。
一つだけ、
おかしなことがあった。
午前4時14分。
玄関の外で、
小さな音がした。
何かが、
ドアに触れたような音。
怖くて、
朝まで確認できなかった。
午前7時。
玄関を開けた。
廊下には、
誰もいない。
ドアノブを見る。
札が掛かっていた。
ホテルで使っていたものと、
同じ札。
表には、
清掃不要
私は触らなかった。
裏返すこともしなかった。
でも、
さっき。
風で札が少し動いた。
裏側が見えた。
ホテルの札には、
裏面に英語で、
「DO NOT DISTURB」
と書かれている。
私の玄関に掛かっている札には、
違う文字が書かれていた。
連泊中
その下に、
小さく、
宿泊人数:2名
と書かれている。
私は一人暮らしだ。
今も、
部屋には私しかいない。
そう思っている。
ただ、
この文章を書き始めてから、
浴室で、
シャワーの音がしています。
確認には、
行っていません。

